藤島新コンサートCM第五弾「見上げてご覧夜の星」

見上げてごらん夜の星を

永六輔さんが亡くなった後、フォーク歌手高石ともやが「私の永六輔、私のボブ・ディラン、二人のホメロスに乾杯」と題した一文を投稿している。

永六輔さんと一緒に京都祇園祭の宵々山のお祭りに、八坂神社傍らの円山公園音楽堂でコンサートを30回開催し続けてきた。永さんはその都度交遊のある有名人を連れて来て、この音楽フェスティバルを盛り上げた。初回が渥美清さんで、2回目は黒柳徹子さん、続いて三波春夫等々でした。

ある年、少年少女合唱団とステージで「上を向いて歩こう」を普通に歌った時のこと、永さんが私に「高石君、何故皆はこの歌を明るく笑いながら歌うの? この歌の詩は12歳の少年が辛くて涙が止まらない思春期の悲しい詩なのに」と語り、信州に疎開した時のご自分の体験を話してくれた。

「ともや!君が歌う時は涙をボロボロ流しながら歌いなさい」と耳元での静かな命令に、ハイと返事をして、自分の心にしまいこんだ」

平成28年(2016年)11月29日の毎日新聞夕刊

この曲が作られた時、作曲者中村八大(御代田に別荘があった)は歌手に坂本九を指名し、坂本九は何気なく明るいポップス調で歌った。中村八大は坂本九のリズムのある歌い方を気に入ったが、永さんは全く共感せず、坂本九の軽やかな歌い方や歌詞の発音が気に入らず、中村八大と激論を交わしたそうだ。

永さんは寂しさ、悲しさを切々と歌って欲しかったらしい。結局永さんが折れて妥協し、中村八大は坂本九に合わせて3回も編曲し直して産経ホールの「第3回中村八大リサイタル(昭和36年(1961年))」で発表され、結果として大ヒットにつながった。

なぜ、永さんはこの歌や、「見上げてごらん夜の星を」思春期の悲しい詩としたのか。その背景には疎開先である信州でのいじめ体験があったようだ。

永さんは昭和8年(1933年)、東京浅草の最尊寺住職の息子として生まれた。国民学校6年生になった昭和19年(1944年)4月、学童疎開で長野県北佐久郡南大井村(現小諸市)に移り住んだ。戦事中末期、東京大空襲のあった最悪の時期だった。

学童疎開は学年を縦割りにした少人数グループで編成され、主として寺が宿舎として充てられた。6年生の永さんは下級生の面倒を見ながら国民学校へ通い、翌年の昭和20年(1945年)4月、上田中学校へ進学した。

当時の上田中学校では地域毎に報国団が結成されていて、1年生から5年生までの縦組織で運営され、小諸、軽井沢地域は報国団立命会と呼ばれ、多数の会員を擁していた。

上田中学校へ入学した直後のこと、4、5年生が勤労動員で名古屋の軍需工場へ行き、留守中の出来事であった。残った報国団立命会の2、3年生が1年生を集め、“気合を入れてやる”“制裁だ”と称して何の理由もなく殴った。日頃から上級生達から日常的に暴力行為を受けていたので、その腹いせに新入生を殴ったのだ。

当時の報国会は全く軍隊組織で、上級生による下級生いじめは日常的に行われていた。2年生が上級生に殴られたのを、下級生にぶっつけ、鬱憤をはらしたのだ。永さんは疎開者だったので、なおさらいじめの対照となったのだろう。

永さんは、朝晩”ひとりぼっち”で宿舎から小諸駅まで歩き、小諸駅から信越線で上田駅まで乗車して上田中学校へ通った。いじめにあった帰り道が晴れて、青空に雲があった日は“上を向いて歩こう”、夜遅くなって星空の時は“見上げてごらん夜の星を”と涙を流しながら登下校していたのかもしれない。小諸の懐古園で泣きながら詩を書いたという話しもある。

「永さんは私に“信州には辛い、悲しい思い出ばかりで、楽しい良い思い出は一つもありませんでした。貴方の郷里の悪口ばかり言ってすみません“と語った」


上田中学校48期生文集「松尾が丘」より

永さんは有名人となってから各地から講演会を依頼されたが、晩年になるまで、小諸市、上田市、上田高校、上田高校同窓会の依頼には決して応ずることはなく拒否し、同窓会の寄付の要請にも決して応諾しなかったそうだ。

永さんは著書の中で数々の名言を記している。「人間、ヒマになると悪口を云うようになります。悪口を云わない程度の忙しさは大事です」

永さんはラジオ、テレビの世界で活躍したが、公的な場で信州疎開の辛さ、信州の悪口をいったことは殆どなかった。永さんは晩年になって上田高校の要請で1回だけ講演会を承諾し、母校を訪れたそうだ。

小諸市、上田市や上田中学校に責任があった訳ではなく、「戦時中の教育制度が原因で悪印象を抱いたことを理解されたからだと思う」と、文集「松尾が丘」の著者は結んでいた。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください