記憶のラジオ 声の記憶と戦後のメディア空間

「声は人の顔であり、形であり、身体であり、私そのものである」

— 若松英輔

🎧 声の浸透と個人的な記憶

戦後の日本では、ラジオが「音を届ける装置」であると同時に、国家の声を浸透させるインフラでもあった。
玉音放送に始まり、天気予報、農業指導、音楽番組、戦災孤児への呼びかけまで──その「声」は、家庭という私的空間の奥へとじわじわと浸透していった¹。

私はその「声」を、はじめは意味ではなく響きとして受け取っていた。父の横で静かにラジオを聴いていたとき、言葉の意味はまだ理解できなかったが、語り手の抑揚、間合い、時に緊張を含んだ沈黙が、空気を変えるのを感じていた。

言葉の背後にある何か──それが「声の記憶」として、私の中に刻まれていったのだ。

📻声の風景と「国家の音響設計」

戦後メディア史を振り返るとき、「声」が果たした役割はあまりにも大きい。それは、新聞のように”読む”ものではなく、生活の中に”入り込んでくる”ものだった。そして多くの場合、その声は「上から」響いてきた。

戦後のラジオは、情報伝達に加えて、生活様式・規律・感情の調整をも担っていた。今日のニュースのトーン、子ども向け番組の呼びかけ、教育放送の話し方……それらはすべて、どういう声で語るか=どういう社会を作るかの実験でもあった。

あるいは、「声の標準化」と言ってもいい。イントネーション、スピード、話法──ラジオを通じて私たちは「聞かれやすい声」や「信じやすい声」を身体に刻み込まれていった²。

🗣️誰の声が響き、誰の声が黙らされたのか

ここで問いたいのは、「その声は誰のものだったのか」ということだ。

高度経済成長期、メディアはますます制度化され、声はますます「役割」に従属していった。ニュースキャスターの声、政治家の演説、教員の語り、そして母親向けラジオ番組の優しい声。だがその裏側で、放送されなかった声、届かなかった叫び、遮断された言葉たちが確かにあった。

たとえば、方言の排除。放送メディアでは「標準語」が重視され、全国放送において方言は「なまり」として矯正の対象となっていた³。地方局でさえ、ニュースや公式放送では地元の方言を抑制し、地域色は娯楽番組の中だけに限定されていた。

また、怒りや苦悩の感情の平準化もコード化されていた。1950年代から60年代にかけて、公共放送では「中立的」「穏健」な口調が標準とされ、特に社会問題や政治的内容を伝える際に感情表現が制限されていた。NHKの「放送基準」では、アナウンサーやキャスターに対して「過度な感情表現」を避けるよう指導していた。また、社会問題や紛争を報じる際も、放送基準と運用上の指導により、声のトーンや抑揚は実質的に均質化された。1950〜60年代の実務運用では、言語の標準化と感情表現の平準化が並行して進んだ。

さらに、公害問題や労働争議の報道では、被害者や当事者の生の声(怒りや悲しみを含む)よりも、「整理された」第三者的な語りが優先されていた。特に社会的な不満や抗議の声を伝える場合、その感情的な部分は薄められ、「理性的な議論」という形に変換されることが多かった。

このような感情の平準化は、社会の多様な感情表現を抑制し、特定の「適切な語り方」を標準化する効果があった。

まだある。被差別部落出身者、在日コリアン、沖縄や北海道の先住民族など、社会的マイノリティの視点や経験を語る声がメディア空間から構造的に排除されていた。彼らの存在は「報道される対象」であっても「語る主体」としては認められにくい状況があった。公共性という名の下に、特定の声だけが正当化される構造があったのだ。

制度改革は参加枠組みを広げたが、実務運用と文化規範は別層で標準化・抑制を進めた。

🇺🇸GHQが果たした役割

それでも戦前のラジオ放送よりはましだった。一方的に権威が語りかける「上から目線の放送」から、国民が参加する双方向的な「市民の声を重視する放送」への転換があったからだ。

GHQは戦後日本の放送メディア改革において重要な役割を果たした。特に、フランク馬場(Frank Shozo Baba)は日系アメリカ人として民間情報教育局(CIE)で日本の放送政策に深く関与した。彼は日本語と英語の両方に堪能であり、「声の民主化」を推進する上で重要な橋渡し役となった。しかし同時に、GHQの放送政策には冷戦体制を見据えた反共産主義的な側面も含まれており、「民主的な声」という名の下に一定のイデオロギー的制約も存在していた⁴。(フランク馬場については別途ふれるつもりだ)

GHQが推進した「電波による民主主義」の理念は、戦後放送法や放送倫理の基盤となった。しかし実際の運用においては、「国益」や「公共性」という名目で特定の視点が優先され、多様な市民の声が十分に反映されないという矛盾も生じていた。放送における「中立性」の概念自体が、特定の政治的立場を暗黙の前提としていたとする批判も存在する⁵。

🦻声を聴くという行為の政治性

私たちは当時、声の海の中にいた──それは静かな海ではなく、管理され、選別された声が響く構造的な空間だった。つまり、「声を聴く」とは、それ自体が政治的な行為だったのだ。誰の声を聴くか、どういう声を信じるか、そしてどんな声が消されているかを知るということ。少年の私は、そんなことを知らぬまま、「良い声」「穏やかな声」「耳に心地よい声」に安心を感じていた。だが今にして思えば、それは“設計された安心”だったのかもしれない。

🎙️記憶の中の声は、誰のものだったか

振り返ってみると、私の記憶の中に残っているのは、番組名でもキャスターの名前でもなく、ある時間帯の空気、ある音の響き、ある語り口のクセ──そういう「声の気配」だ。そしてその気配こそが、戦後メディア空間が私たちに残したもっとも深い痕跡なのだと思う。
それは、単なる情報ではない。言葉でもない。“声”という名の空気、あるいは社会そのものの呼吸音だった。

戦後という「声の時代」は、私たちを包むようにして日常をかたちづくっていた。だが、やがてメディアは家庭の中心から、個人の手元へと移動を始める。
ラジオはリビングの棚から、少年のポケットへと場所を変え、「声の風景」は個の時間と交差していく。

次節では、トランジスタラジオの登場とともに変容した、聴くという行為の私的化について考えてみたい。


📎脚注・参考文献

[1]1945年8月15日、昭和天皇の「玉音放送」により、ラジオは「国民に響く国家の声」として記憶された。戦後初期のラジオは、復興、教育、生活情報を通じて国家の意志と感情を家庭に届けるメディアとして機能した。
📚出典:吉見俊哉『声の文化と戦後日本』岩波書店, 1993年。

[2]メディアが社会に「好ましい声」を供給する過程は、戦後のナレーション文化、公共放送の話法の制度化などに表れている。
📚出典:磯前順一『語りの政治学』、NHKアーカイブス「アナウンス基準資料集」

[3] 放送初期の言語統一運動では、方言の抑制が全国放送の「理解性向上」として正当化されていた。
📚出典:大石始『ラジオと方言』晶文社、2011年。

[4]GHQの放送政策と「声の民主化」
📚出典:有馬哲夫『占領下のメディア統制』吉川弘文館, 2008年、マイケル・バルフォア『占領と放送改革』東京大学出版会, 1992年(訳書)。

[5]「電波による民主主義」の理想と現実
📚出典:松田浩『メディアと戦後民主主義』岩波書店, 2004年、佐藤卓己『言論統制』中央公論新社, 2016年。

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