テレビという窓を通して、私たちは皆同じ風景を見る。
その光景は個々の記憶となりながらも、
同時に集合的な想像力を織りなしていく。
📺 テレビ言葉の教室侵入──「バッチグー」の流行
小学校の教室には、いつも”何か”が流れていた。それは教師の声でも、チャイムの音でもなく──テレビの向こうからやって来た言葉たちだった。
ある時期から、友だち同士の会話の中に奇妙な決まり文句が溢れ出した。「バッチグー」「アッと驚くタメゴロー」「ズンドコ節」……誰が言い出したともなく、教室を満たしていく。
先生が板書している間にも、机の下ではその”合言葉”がひそかに交わされていた。それらは明らかに「家」で仕入れてきた音だった。
誰もが夕方のテレビや、土曜の特番、日曜朝の子ども番組から仕入れてきた”音のサンプル”を、学校という場で”交換”していたのだ。子どもたちの間で使われる流行語は、単なる模倣ではなく、集団の中における位置確認の装置として機能していた 1。
📺 メディアが生み出す共通体験──”共通語製造機”の誕生
テレビの台頭は、家と外の感覚を直結させる装置だった。
かつては家庭の中に留まっていた声や笑いが、テレビによって”共通のもの”となり、教室、校庭、バスの中にまで流れ出すようになった。
「みんなが見ている」番組、「みんなが真似している」言い回し。
それを知らないと、会話の中に入れない/仲間からずれる──そう感じさせる”無言の圧”が、子どもの世界にはたしかにあった。
そこには、選択という自由よりも、同調という安心感が優先されていた。
🤹♀️ 感情の型としての流行語──表現の標準化
流行語は、ただの言葉ではない。
それは、どんなタイミングで、どんな感情を込めて発するかが決まっている”感情の型”だった。
- ギャグには笑いを
- 愚痴には合いの手を
- 突っ込みには大声を
そうした言語的ルールが、テレビを通じて身体に刻まれていった。つまり、テレビは感情のテンプレートを提供していたのだ。言い換えれば、笑う場所、怒るタイミング、泣く場面までもが”構文化”されていた。
そして子どもたちは、それを模倣しながら「正しい感情の出し方」を覚えていった。映像メディアが与える「感情の出し方」への影響は、家庭内のコミュニケーションにも波及し、“笑い方”や“泣き方”の同調傾向が強まった 2。
📚 残響する放送──教室の擬似バラエティ化
教室の空気は、実は「放送されたものの残響」で満たされていたのかもしれない。子どもたちは、テレビで仕入れたネタを再演し、アドリブを加え、まるでミニチュアのバラエティ番組のように生きていた。
それは、創造性というよりも、むしろ反復性の中で育まれた共同性だった。「わかる」「通じる」「真似できる」──その共有感が、“わたしたち”という感覚を強化していたのだ。
🧑🏫 教育の中のテレビ文化──制度化される共有感覚
もちろん、こうしたテレビ的共通語は、単なる遊びでは終わらない。やがて教師たちも、流行語やタレントの名前を引用しながら授業を始めるようになった。
「◯◯くん、ちょっとズンドコだねえ」
「これ、アッと驚くぐらい大事な話ですよ」
つまり、テレビ語法は学校教育にも取り込まれていった。教室という制度空間が、感情の規範をテレビに委ねていくプロセスが始まっていたのだ 3。
📎脚注・参考文献
[1]📚出典:小田切秀雄『子どもとテレビの言語空間』、大月書店
[2]📚出典:志田陽子『メディアと感情表現』、岩波現代文庫
[3]📚出典:日本教育放送学会誌、NHK学校放送アーカイブ
