教室における「流行語」──テレビと集団感覚

テレビという窓を通して、私たちは皆同じ風景を見る。その光景は個々の記憶となりながらも、同時に集合的な想像力を織りなしていく。 📺 テレビ言葉の教室侵入──「バッチグー」の流行 小学校の教室には、いつも”何か&…

放送と検閲 ― ラジオ・映画・テレビの黎明期

公共の電波に声が乗る。
免許と番組表、 検閲と自主規制、 視聴率とアルゴリズムにより、 自由は管理の語彙で呼び直される。
沈黙は罰ではない。 放送コードとプラットフォーム規約の狭間で選び取られる態度である。

トランジスタラジオと「個の時間」の始まり

居間に満ちていた声は、ある日、手のひらの小さな箱へと住み替えた。世界は耳の内側に折りたたまれ、時間はひとりのために開く。
可搬という技術が、私的な聴取という詩を発明した。

記憶のラジオ 声の記憶と戦後のメディア空間

「声は人の顔であり、形であり、身体であり、私そのものである」

戦後の日本では、ラジオが「音を届ける装置」であると同時に、国家の声を浸透させるインフラでもあった。
玉音放送に始まり、天気予報、農業指導、音楽番組、戦災孤児への呼びかけまで──その「声」は、家庭という私的空間の奥へとじわじわと浸透していった¹。
私はその「声」を、はじめは意味ではなく響きとして受け取っていた。父の横で静かにラジオを聴いていたとき、言葉の意味はまだ理解できなかったが、語り手の抑揚、間合い、時に緊張を含んだ沈黙が、空気を変えるのを感じていた。
言葉の背後にある何か──それが「声の記憶」として、私の中に刻まれていったのだ。

首輪は誰の手に ──Macと私とサブスク地獄

『Macを連れて散歩しよう』──そんな連載をMacFan誌で10年も続けていた。今読み返すと、なにやらほのぼのしたタイトルだ。ペットのようにMacを連れ、街角のカフェで原稿を書いたり、公園のベンチで物思いにふけったり。あ…