レタスの話の続きです。
御代田町のゆるキャラ「みよたん」が腰に下げているポシェットの柄は、レタスだ。町を代表する農産物として役場が公認した、いわば「町の顔」だ。浅間山の南麓、夏でも涼しい斜面に広がるレタス畑は、たしかにこの土地の誇りにふさわしい。スーパーの棚で当たり前に手に取るその一玉を切ると、断面から白い乳液がにじむ。レタスという名の由来となった乳だ。だが、この一玉には乳よりもはるかに濃い、二十世紀日本の歴史が畳み込まれている。帝国が大陸へ広げ、敗戦で畳み、浅間山麓で耕し直した、土地と人の来歴だ。
そもそもレタスは「中東育ち」
その話に入る前に、少し寄り道をしたい。
レタスの原産地は地中海沿岸から中近東一帯で、紀元前六世紀にはすでに栽培されていたという、人類とつきあいの長い野菜だ。御代田の涼しげな斜面に並ぶこの緑は、もとをたどれば中東の生まれだ。奈良・平安の昔に中国から日本へ渡ってきた頃のレタスは、下の葉から掻き取って食べる「掻きちしゃ」という、いまとは似ても似つかぬ姿だった。
そして、いま御代田で穫れる丸い「玉レタス」は戦後にアメリカから入ってきた品種だ。普及の発端は朝鮮戦争。在日米軍向けの需要、いわば「野菜版の特需」が長野各地のレタス栽培を後押しした。中東に生まれ、アメリカ仕込みで日本に根を下ろし、戦争のたびに身の上が動く——この作物は生まれたときから世界情勢と縁が深い。
御代田の食卓に当たり前に乗る一玉は、二千年以上の旅と何度かの戦争を経て、ようやくそこにある。
帝国が広げ、敗戦が畳んだ
玉レタスの本格的な物語は、御代田からはるか北西、旧満州に始まる。
国策に送られた開拓民が大陸の沃野を耕し、敗戦とともにすべてを失った。生きて帰り着いた者を、故郷は受け止めきれなかった。戻るべき田畑はすでに誰かのもので、引揚者の手に残る土地はなかった。
国はその受け皿を急造する。一九四五年十一月九日に閣議決定された「緊急開拓事業実施要領」は、戦後の食糧難を背景に、食糧増産・復員者や離職者の就労確保・新農村建設を掲げ、五年で百万戸を帰農させ百五十五万町歩を開墾するという、壮大にして切迫した計画だった。引揚者は再び鍬を渡され、今度は国内の未開地へ送られていく。
浅間山麓の国有林を拓く
行き先のひとつが、浅間山南麓の高地だった。隣接する大日向開拓地では、満州から帰った元団員百六十五人が国有林にゼロから入植した。カラマツ林を人の手で伐り倒し、電気も水道もない簡素な小屋で集団生活を送りながら、不毛の大地に鍬を入れた。標高が高く、霜の早い土地だ。当初に植えたジャガイモやソバでは収入にならず、暮らしは困窮した。引揚者というだけで陰口を浴び、高校進学を諦め、冬は出稼ぎで家計をつないだ者もいた。
御代田の西軽井沢第一公民館には、この開拓当時の暮らしを彷彿させる農機具などが今も保存されている。人力と畜力に頼った時代の道具たちは、化学肥料も大型機械もない斜面で土と格闘した日々を、言葉以上に雄弁に語る。引揚者が握った鍬の柄の摩耗を想像するとき、開拓は歴史の抽象ではなく、手のひらの実感として立ち上がってくる。
占領軍が呼び込んだ野菜
もうひとつの伏線を解いておかねばならない。なぜ日本人が、夏のレタスを大量に求めるようになったのか。その始まりにも、アメリカがいる。
戦前の日本では、生野菜を食べる習慣はむしろ稀だった。有機肥料を多用する農法のもとでは寄生虫の危惧があり、高温多湿の風土もレタス栽培には不向きだった。流れを変えたのは占領だ。戦後初期に日本を統治した米兵がレタスを欲しがったことから、千曲川最上流の川上村で、日本にしては珍しく夏でも冷涼なこの地に、レタス栽培が本格化した。
占領が求めた野菜が、占領が崩した帝国の引揚者を、やがて養うことになる。同じアメリカが、一方で満州を含む帝国の解体を通じて開拓民を故郷喪失へと追いやり、他方でその受け皿となる高原野菜の市場を呼び込んだ。歴史の皮肉は、この斜面で二重に折り重なっている。米軍の統治が終わった後も、日本人の食生活そのものが洋風化し、レタスへの需要は内側から膨らみ続けた。占領が点した火は、占領が去っても消えなかった。
高度成長の食卓が開拓地を救う
その需要を、決定的な豊かさへと変えたのが高度経済成長だった。一九六〇年代、キャベツをはじめとする高原野菜の生産が軌道に乗り、開拓地の暮らしはようやく安定する。占領が点した火が、こんどは大衆消費社会の燃料を得て燃え広がった。夏でも生野菜サラダを求める都市の食卓が、冷涼な高地でしか夏に作れない野菜の価値を押し上げた。
この構図は浅間山麓に限らない。標高が高く作物の育たない土地でキャベツなどを作ったところ、都市の需要増でうまく売れるようになった、と各地の戦後開拓地で証言されている。清里や野辺山あたりの開拓地もまた、その多くが満洲からの引揚者の手になるものだった。都市の食卓が、満州帰りの開拓地を産業として成立させた。帝国の崩壊が地方の斜面に落とした人々を、こんどは大都市の胃袋が引き受けた、とも言える。
レタスがとりわけ高原に向いたのには理由がある。この野菜は生育適温が十五度前後と狭く、暑さが続くと生育が止まる。平地が夏に作れない端境期を、冷涼な高原が埋める。スーパーに一年中レタスが並ぶのは、この高原産地のリレー出荷のおかげで、その産地の一角を、かつての開拓地が担うようになった。
豊かさの代償――連作と流域
だが、豊かさには裏面がある。
同じ畑でレタスを繰り返し作る連作は、病害虫を土に蓄積させる。それを抑えるために強い農薬に頼れば、副作用として畑の土はもろくなる。大雨が降ると、もろくなった土壌が崩れて河川に流れ込み、水質を濁らせる。散布された化学肥料の一部も川へ流れ、富栄養化を招いて水辺を変えていく。高原レタスの高い収益の裏で、流域の水環境が静かにコストを負ってきた。
開拓民が人力で拓いた斜面は、化学肥料と農薬の力で高密度の生産地へと姿を変えた。皮肉なことに、連作を可能にしたその同じ技術が、土を脆くし、川を濁す原因にもなった。豊かさを支えた力が、豊かさの代償を生む——二十世紀の農業が各地で経験した循環が、この斜面にも刻まれている。
別荘地へ――めぐる土地
そして風景はまた変わる。
離農者が増え、畑作に不向きな土地は別荘地などへ転用されていった。開拓初期を知る団員は高齢化し、その数はいまや十人を下回る。満州で広げた畑、敗戦で捨てた畑、浅間山麓で拓き直した畑、そして別荘へと姿を変える畑——土地の用途は、二十世紀の日本の浮沈とともに、めぐり続けてきた。
みよたんのポシェットに描かれたレタスを眺めながら、そのことを思う。御代田の一玉のレタスを手に取るとき、その背後には、中東で生まれた種があり、アメリカが持ち込んだ品種があり、満州へ膨張した帝国があり、敗戦の引揚があり、国有林を拓いた鍬があり、占領軍が呼び込んだ食卓があり、都市の胃袋があり、川を濁す肥料があり、そして別荘地に変わる斜面がある。一玉の野菜を切る断面から、二十世紀がにじみ出てくる。御代田を歩けば世界にぶつかるとは、つまりそういうことだ。
【主な参照・出典】
- 御代田町「御代田町の農産物について」(town.miyota.nagano.jp)
- 農畜産業振興機構「長野県川上村のレタス栽培」(vegetable.alic.go.jp)
- AGRI JOURNAL「高原レタス連作障害が引き起こすものとは」(agrijournal.jp、2020年9月)
- 時事通信「戦後が一番つらかった——大日向開拓地の旧満州引き揚げ者」(jiji.com、2025年8月)
- 高知の会編「子・孫世代が語り継ぐ移民・引き揚げ・戦後」(2024年3月)
- Wikipedia「戦後開拓」「御影用水」
※本稿で触れた御代田町域の入植団名・入植年・送出元との対応関係については、次回、碑文の一次資料にあたって詳述する。
