道端の石碑が語る西軽井沢の戦後史

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御代田を歩けば世界にぶつかる

Think global. Act locally.

私のお気に入りの散歩コースは、〈ウグイスの小径〉を通り、御影用水へ出る道だ。

その途中に、いくつかの石碑が立っている。黒御影石の立派な記念碑、苔むした古い慰霊碑、御影用水近くの広場に置かれた大きな碑。何度もその前を通っていたのに、以前は足を止めることもなかった。

石碑は風景の一部になってしまうと、かえって見えなくなる。

それが急に気になり始めたのは、追分に住む友人から、南佐久郡大日向村の満蒙開拓団と、その生存者たちの戦後の入植について聞いたことがきっかけだった。

そういえば、あの碑には「開拓」という文字が刻まれていた。供花の絶えない石塔は、誰を慰霊しているのだろう。御影用水のそばの大きな碑には、何が書かれているのか。

調べてみると、この静かな散歩道が、満洲、日本の敗戦、引き揚げ、戦後開拓、そして現在の御代田の土地開発へとつながっていることがわかってきた。

「望ヶ丘」は希望から生まれた

〈ウグイスの小径〉の途中に、「長野県開拓基幹入植記念之碑」と刻まれた石碑がある。

碑が伝えるのは、昭和二十二年、すなわち一九四七年に始まった御代田農場への入植の歴史だ。

『御代田開拓農業協同組合史』によれば、同年五月、満洲開拓からの引き揚げ青少年や、農家の次男、三男など十八人が訓練生として選ばれ、松川農場で農業訓練を受けた。九月八日、一行は御代田駅に到着し、開拓基地農場御代田農場に入った。

翌一九四八年五月二日、入植者たちは「望ヶ丘開拓農事実行帰農組合」を結成した。

「望ヶ丘」という名は、後年の別荘地開発や観光宣伝のために付けられたものではない。入植者たち自身が、新しい共同体の名前として選んだものだった。

この一帯は、それまで「反(そり)」と呼ばれていた土地の一部だったという。しかし、入植者たちが掲げた「望ヶ丘」という名がしだいに地域名として定着し、古い小字名は人々の記憶から遠ざかっていった。

そこに込められていたのは、しゃれた高原住宅地のイメージではない。

何もない土地で、もう一度生活を築こうとする人々の、文字どおりの「望み」だった。

満洲へ送り出された人々

戦後の開拓を理解するためには、時間を一九三〇年代まで戻さなければならない。

一九三一年の満洲事変以後、日本は中国東北部への支配を広げ、翌年、「満洲国」を建国した。農村の貧困や人口問題を解決するという名目で、日本政府は農民を満洲へ移住させる政策を推進した。

一九三六年には「満洲農業移民百万戸計画」が打ち出され、全国の農村から若者や家族が大陸へ渡った。その総数は約二十七万人にのぼるとされる。

なかでも長野県は、全国でもっとも多くの開拓民を送り出した県だった。送り出された人は約三万三千人。二番目に多かった山形県の二倍を超える規模だ。

県や自治体の担当者は農村を回り、「満洲へ行けば広い土地が持てる」「新しい農村をつくることができる」と移住を勧めた。飯田・下伊那地方などでは、村の人口の一部を集団で送り出す「分村移民」も進められた。

しかし、そこは誰も住んでいない無人の土地ではなかった。

開拓民に与えられた土地の多くは、もともと中国人農民が暮らし、耕していた土地である。日本の満蒙開拓政策は、国内の農村救済策であると同時に、植民地支配を農民の移住によって既成事実化する政策でもあった。

送り出された農民たちもまた、国家の政策に動員された存在だった。しかしその一方で、現地の人々から土地と生活を奪う側にも組み込まれていた。

被害者と加害者という単純な線引きでは捉えきれない。この二重性こそ、満蒙開拓の歴史の重さである。

一九四五年八月九日

一九四五年八月九日、ソ連軍が満洲へ侵攻した。

開拓地にいた成人男性の多くは、すでに軍へ召集されていた。集落に残されていたのは、女性、子ども、老人が中心だった。

ソ連軍の進撃を前に、人々は着の身着のままで開拓地を離れた。鉄道や避難手段を十分に確保できないまま、荒野を歩き続けた人々も多い。攻撃だけでなく、飢え、寒さ、病気、集団自決、家族離散が人々を襲った。

長野県南佐久郡大日向村から満洲へ渡った開拓団の場合、約六百九十人のうち、日本へ帰還できたのは約三百十人だったとされる。半数以上が帰ることができなかった。

全国最多の開拓民を送り出した長野県は、それだけ多くの犠牲者と引き揚げ者を抱えた県でもあった。

帰ってきても、帰る場所がなかった

敗戦後、生き残った人々は収容所生活などを経て、一九四六年から一九四七年にかけて日本へ引き揚げてきた。

だが、日本へ着けば、以前の暮らしに戻れるわけではなかった。

出身地では家や農地が失われていたり、すでに別の人が耕作していたりした。戦災と食糧難のさなか、農村にも引き揚げ者を受け入れる余裕はなかった。「帰国者」でありながら、故郷に自分の居場所を見つけられない人が少なくなかった。

一方、復員者や都市の戦災者を含め、大量の人々に仕事と食料を確保することが、戦後政府の緊急課題となっていた。

そこで進められたのが、緊急開拓事業だ。政府が出した答えは「また開拓だ」だった。

1946年、農地改革の流れの中で「自作農創設特別措置法」が成立し、引き揚げ者たちに新たな荒野を開拓させる政策が始まった。長野県では浅間山麓・八ヶ岳麓など各地に「長野県開拓基地農場」が設けられた。

碑が示す通り——

昭和22年(1947年)5月、訓練生18名が松川農場で選考された。満洲開拓引揚者の青少年や農家の次・三男たちだ。
昭和22年(1947年)9月8日、一行は御代田駅に到着し、開拓基地農場御代田農場に入った。
昭和23年(1948年)5月2日、「望ヶ丘(のぞみがおか)開拓農事実行帰農組合」が設立された。

浅間山麓や八ヶ岳山麓など、それまで農地に適さないとされてきた土地が開拓地に指定され、引き揚げ者や復員者、農家の次男、三男たちが入植した。

国の政策によって満洲へ渡った人々の一部が、敗戦後、再び国の開拓政策のなかで浅間山麓へ向かった。

大陸で築いた農地を失い、日本へ戻ったあと、もう一度、土地を切り開くところから始めなければならなかったのだ。

切株だらけの原野から

望ヶ丘に入った人々の前に広がっていたのは、豊かな高原の畑ではなかった。

戦時中、この地域の樹木は軍用材などとして伐採され、土地には大きな切株が残されていたという。入植者たちは、その切株を掘り起こし、石を拾い、浅間山麓特有の火山灰土を耕した。

寒さは厳しく、風は強かった。生活用水や農業用水の確保にも苦労した。

最初からレタスを作っていたわけではない。入植当初に栽培されたのは、大麦、小麦、大豆、そば、馬鈴薯、大根などだった。

まず自分たちが食べ、生き延びるための作物が必要だったのである。

収穫が安定するまでには長い時間がかかった。農業だけでは生活できず、冬場に出稼ぎへ出る人もいた。開拓とは、原野を畑に変えるだけではない。住居を建て、道をつくり、水を引き、共同体を一から立ち上げる仕事だった。

高原野菜の産地へ

一九六〇年代に入ると、御代田の農業はしだいに姿を変えていった。

冷涼な気候と水はけのよい火山灰土が、キャベツ、ハクサイ、レタスなどの高原野菜に適していることがわかってきた。市場への輸送網や栽培技術が整備され、一九六五年前後からレタス栽培が本格的に広がった。

かつて「不毛」とされた浅間山麓の土地は、日本有数の高原野菜産地へと変わっていった。

現在、夏の御代田を歩けば、整然と並んだレタス畑を見ることができる。しかし、その風景は自然に生まれたものではない。

切株を抜き、土を起こし、風や霜と闘ってきた人々の何十年にもわたる労働が、その下に積み重なっている。

もう一つの「移住の町」

近年、御代田町は新しい移住先として注目されている。

軽井沢に近く、新幹線や高速道路を利用すれば首都圏との往来もしやすい。リモートワークの普及もあり、住宅や別荘の建設、宅地開発が進んだ。新しい店やカフェが生まれ、「西軽井沢」という呼び名も、不動産や観光の世界で広く使われるようになった。

現在の移住者の多くは、自分の意思で御代田を選ぶ。自然環境や生活費、働き方、子育てなどを考え、新しい暮らしを始める。

しかし、この町には、それとはまったく異なる事情で移り住んだ人々の歴史がある。

国策によって満洲へ渡り、敗戦によってすべてを失い、帰国後も故郷に戻れず、浅間山麓の原野に入った人々である。

二つの移住は、同じものではない。

だが、新しく土地へ来た者が、先にここで暮らしてきた人々の歴史を知るという点では、無関係でもないだろう。

今、住宅が建ち並びつつある土地のなかには、かつて開拓者たちが切株を抜き、畑をつくった場所も含まれている。新しい町の風景は、古い風景の上に重なってつくられている。

石碑の前で考える

現在の「長野県開拓基幹入植記念之碑」は、入植開始から七十年以上を経た二〇一九年一月に建立された。碑文を揮毫したのは、初代農場長の松尾直利で、当時九十歳だった。

なぜ、これほど長い年月を経てから碑が建てられたのだろう。

開拓を体験した世代が少なくなり、畑が住宅地へ変わり、地域の人口構成も変化していくなかで、自分たちの歩みを形に残しておかなければならないという思いがあったのかもしれない。

石碑は多くを語らない。

満洲で何が起きたのか。どのような人が御代田へ来たのか。何を食べ、どのように冬を越し、どれほどの時間をかけて畑をつくったのか。碑の短い文章だけでは、すべてを知ることはできない。

だが、石碑は問いを残す。

この土地は誰が切り開いたのか。
なぜ、その人たちはここへ来たのか。
現在の繁栄は、どのような過去の上に成り立っているのか。

散歩の途中に立つ一つの石碑をたどっていくと、御代田から満洲へ、満洲から敗戦後の日本へ、さらに現代の移住と土地開発へと、歴史がつながっていく。

「世界を考え、足元から行動する」という言葉は、ともすれば格好のよい標語として消費される。

しかし、世界とは、遠い場所にだけあるのではない。

いつもの散歩道にある。
草に覆われた石碑にある。
レタス畑の土の下にある。
そして、いま自分が住んでいる土地の来歴を知ろうとする、その小さな行為のなかにある。

望ヶ丘の石碑は、今日も散歩道の脇に静かに立っている。

苔むした慰霊碑
現在も供花が絶えない。地域の人々が、亡くなった開拓者や関係者の記憶を守り続けている。

御影用水の御代田と軽井沢の境界にある記念碑
開けた場所に立つ大きな碑。碑面に刻まれた文字が、この土地に注がれた長年の労苦を伝える。水の話はまた、別途展開する予定だ。


主な参考資料

・『御代田開拓農業協同組合史』所収「望ヶ丘開拓農事実行組合」、八二―八五頁。入植者の選考、農場訓練、御代田への入植、「望ヶ丘」の命名経緯を記録。
・『西軽井沢区五十周年記念誌』所収「西軽井沢区地名考証」、一三〇頁。望ヶ丘以前の地名「反」について記載。
・信濃毎日新聞「満蒙開拓への送出人数、長野県は最多」。
・自治体問題研究所「全国一の開拓民を送り出した長野県」。
・満蒙開拓平和記念館関連資料。
・御代田町「御代田町の農産物について」。
・現地写真、和田昌樹撮影、二〇二六年六月。

今回はAIを使ってもなかなかいい資料が見つからなかったので、御代田町立図書館にある各種1次資料および現地調査をもとに構成した。

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